【画像】三原綱木の若い頃がスゴい!16歳で有名バンド入り?

三原綱木さんはギタリストであり、「三原綱木とザ・ニューブリード」バンドマスターとして活動をしています。

そんな三原さんは80歳を目前に、若い頃について興味を持つ人は多くいます。

今回は、三原綱木さんの

  • 若い頃のこと
  • 若い頃のエピソード

についてまとめてみます。

目次

【画像】三原綱木の若い頃がスゴい!

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三原さんは、新潟県東蒲原郡三川村字綱木村(誕生時は合併のため三川村、現在は阿賀村)に生まれました。

生まれた当時は戦後間も無く貧困の時代。

三原さんも例外ではなく、アメリカ人による文化も身近に感じてきました。

若い頃がスゴい

三原綱木さんの若い頃は、アメリカ文化に強く感化されてきたことが関係しています。

三原さんは、1945年(昭和20年)11月3日に生まれました。

これは太平洋戦争の終戦からわずか3ヶ月後にあたります。

当時戦後直後であったこともあり、母の郷里への疎開先であった、日本新潟県東蒲原郡三川村字綱木村(現在の阿賀町)での誕生でした。

生後1年(または2歳頃)で一家は東京に移り、三鷹市に居を構えました。

当時の三鷹市にはアメリカ兵が多く駐留しており、この環境が三原さんの人生に大きな影響を与えました。

三原さんの母が開いた「三原洋装店」は、当時アメリカ兵を相手にする女性(パンパン)向けの洋服製造で大繁盛し、都内に5店舗を構えるほど成功しました。

家が裕福だったため、三原さんは幼少期から楽器に親しむことができました。

小学3年生の時、三鷹のレコード店で米兵がギターを弾き語りしているのを見て魅了され、ギターを買ってももらい練習に没頭していったようです。

小学4年生からクラシック・ギターを習い始め、中学3年生からジャズギター(エレキギター)に転向しました。

ジャズ教室の先生から「ここまで弾けるんだったら、プロとして始めた方がいい」と勧められ、高校2年(16歳頃)の時に五反田のナイトクラブでプロとして活動を始めました。

三原綱木は若い頃16歳で有名バンド入り?

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三原綱木さんは若干、1960年16歳という若さでプロ入りを果たしました。

その評価は高いことでもで知られています。

16歳で有名バンド入り?

三原綱木さんは、16歳で芸能界に入って以来、ギタリスト、ボーカリスト、作曲家、バンドマスター、そして指揮者として、日本の音楽シーンにおいて多岐にわたる重要な役割を果たし続けています。

1964年(19歳頃)にジャッキー吉川とブルー・コメッツ」(ブルコメ)にギター担当として加入しました。

ブルコメは1960年代後半のGSブームを牽引したトップグループの一つです。

三原さんはプロ入り前からクラシックギターの確かな基礎と譜面が読め、ジャズギター(エレキギター)に転向後も高い演奏技術を身につけており、業界内で信頼されていました。

その過程で、耳コピに対しては苦労したとも語られています。

加入前にはクラブのバンドマスターからロックをやるようにアドバイスされ、最終的に渡辺プロダクション系列の大橋プロダクション所属のグループ「ファイヤーボール」に約2年間所属していました。

「ファイヤーボール」ではギタリストとして、「ダイアナ」や「オー・キャロル」といったアメリカンポップスを演奏していました。

三原さんは「ファイヤーボール」にいた当時、憧れのバンドであるブルー・コメッツと同じ事務所に所属していたことを知らなかったと述べています。

バンドは「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」の兄貴的存在でした。

事務所内では三原さんの存在は強く認知されており、1964年頃に「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のギターが高齢だったこともあり、後任として19歳という若さで引き抜きをされました。

後に、リーダーのジャッキー吉川(ドラム)、高橋健二(ベース)、井上忠夫(サックス・フルート)、小田啓義(キーボード)、そして三原綱木(ギター)と共に、日本のロック・ポップス黎明期の中心人物として、黄金期のメンバー5人が揃うことになります。

ブルコメは1967年(昭和42年)にブルー・シャトウ」を大ヒットさせ、第9回日本レコード大賞を受賞し、ロック・ポップス期のトップグループとしての地位を確立しました。

また、ロック・ポップスブームにおいて唯一レコード大賞を受賞したバンドでした。

ビートルズのサウンドに刺激を受け、その影響を受けつつ、独自のサウンドを構築していき、三原さんはブルコメで「日本で開発的(革命的)なストロボライト」を最初に導入したと述べています。

また、三原さんと高橋健二さんが使用していたバイオリン型のファーストマンのギターとベースは、ブルー・コメッツのグループのアイコンとして知られています。

ブルコメ時代の中期から後期にかけて、三原さんは作曲も担当し始め、初めて「北国の二人」のB面曲「銀色の波」、初のA面曲は1969年リリースの「雨の赤坂」でヒットし、全盛期を築くのに貢献しました。

 三原さん自身、「雨の赤坂」はオリコンで2位をキープし、印税ががっぽり入った(当時で数千万円くらい)と語っています。

この曲は、ムード歌謡の名曲として後に角川博などがカバーし、三原さんの作曲家としての才能を裏付けました。

また、作曲だけではなく「北国の二人」メインボーカルを任されることもあり、ますます才能を発揮していきます。

1966年(昭和41年)のビートルズ日本公演では、内田裕也さんや尾藤イサオさんのバックとしてブルージーンズと共に前座を務めるという快挙を成し遂げました。

まとめ

今回は、三原綱木さんの

  • 若い頃のこと
  • 若い頃のエピソード

についてまとめてみました。

三原綱木さんは、幼少期アメリカの文化に触れギターに興味を持ち始めました。

当時、戦後間もない頃でしたが、母親の仕事がうまくいったために苦しい思いはせずに音楽に触れられたことは、その後の彼の人生に対して大きな影響を与えました。

16歳でその才能を開花させ19歳の時には、憧れの有名バンド「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のメンバーとして加入しました。

当時の日本のロック・ポップス黎明期の中心人物として現在も活動を続けています。

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